赤毛のアンシリーズは簡単にいえば小説家の半人生(創作)だ。小説家の人生をたどってもあまり面白いものではない。いつぞやの大河ドラマ「光る君へ」でもよくわかる。そんなこんなを知る由もなく、あまりにもよく耳にする名作だ。図書館にずらりっと並んでいるのを順に借りた。が、誰の訳書を読んだか覚えていない。どこまで読んだかも覚えていない。主人公の長ったらしい空想が煩わしかった。マシューがなぜ虜になったのか、まったく理解できなかった。その後の人生に関しても興味なかった。お隣さんに生涯の親友となりうる相手がいたことも、あれだけ拒否ってなお諦めない初恋の相手がいて、狭い世界とはいえ何処に行っても同じところに入学している、なども都合がよすぎる。とはいえ、考えていることをそのまま口にして好まれるという性格が究極のムードメーカーであることに異存はない。好かれるゆえに幸運にも恵まれる。のだけれどそもそも、おしゃべりな物書きというのは存在するのだろうか。←と書いた瞬間に又吉直樹氏を思い出した、ごめんなさい。松本清張氏もよく口の回る人だな、ごめんなさい。
翻って「大きな森の小さな家」は創作の体でありながらほぼ作者の実体験だ。続きがもうない、というところまで読んでがっかりした記憶がしっかりある。がやはり、作者が作家活動を始めたあたりから物語も失速していったように思う。
高畑勲氏の超有名な「赤毛のアン」も見た。アニメでもアンが煩わしかた。そして、最後まで見たかどうかの記憶がない。
実写の映像作品はいくつか観た。実写ともなるとさすがにうるさすぎるほど主人公が喋りまくることはなくて、映像の美しさに引っ張られてやっと素晴らしいと思ったので、ケビン・サリバン脚本のテレビドラマ(日本では劇場版として)を見たのかもしれない。とても素晴らしいので4作品全部見たいと思うのだけれど、BSでの放送を見そびれてそのままだ。
最後に見た実写作品は「アンという名の少女(2017年-2019年)」で、NetfixとCBC共同のテレビドラマ。日本では某公共放送が2度ほどだったか放送した。これは原作勢を敵に回したような作品で、とにかく美しく、美しすぎて妖艶すぎて多少薄気味悪い。原作にはない設定も多くあるのだけれど、個人的にはあまり原作から外れている感はなかったのが不思議でしょうがない。現代的な社会問題や世相を取り込んでいるため、今現在のあの土地で水道設備のない生活を続けている人々の物語かと錯覚しそうな側面はある。主演女優さん、アンの役がぴったり過ぎて、このままシリーズが続くかと思ったら製作側のあれこれに巻き込まれて製作そのものが打ち切りになった様子。
気のせいかもしれないけれど、どの作品も微妙に構成が違うような気がする。ほぼすべてのエピソードは馴染みがある。としたら順番を入れ替えたり場面を違えたりしているのかな。もしかしたらそのために、原作は同じなのにどの作品も違って見えて飽きないのかもしれない。
この度のアニメ化は、高畑氏にケンカ売っているのか、とか越えられると思っているのかなどの辛辣な言葉が多いため、高畑氏のアンの第一話を先にネット(たぶんYouTube)で視聴した。なるほど、宮崎駿氏が途中で嫌になってルパン三世のアニメに逃げて行っただけあって、実直に作られていて面白い。けれど、原作を読んだとき同様、主人公を好きになれない。それだけ原作に忠実なのかもしれないと思った。
翻って、最新作のアニメ「アン・シャーリー」は結構駆け足だ。原作第一作の「赤毛のアン」は2,3話で終わる。と言う調子なので、簡単に言えば、11歳でもらわれてきて22歳で大学を卒業する「アンの青春」までの11年間を24話で駆け抜けるのだから、1話で半年ほど経過する調子で流れていく。
アンシリーズとも言い難いテレビ作品「アンという名の少女」でさえアンが貰われてきてグリーンゲーブルスに完全に定着するまでの数年をこれでもかというくらいしつこく丁寧に描いているわけなので、最新アニメの「アン・シャーリー」のかっ飛ばし方は慣れない間は違和感がある。
でも冗長なアンの空想話を上手にフェードアウトさせて聞き手が感動しているということだけを映像で伝えてくる。主要なエピソードも過不足なく拾い上げている。カナダ北部の抜けるような美しさを余すところなく映像で見せてくれて本当に感動する。年月の過ぎ方が少々乱暴だとは思うけれど、ダイジェスト版を見させられた感はまったくなくて、素晴らしく筋の通った1つの作品として心に残った。
シリーズ構成の高橋ナツコ氏はキラキラアニメで定評があるとのことで、思わず納得してしまった。絵コンテなのか演出なのか知らないのだけれど1か所だけ登場人物の表情の変化に違和感があったのみで、他にひっかっかるところが何一つなく、深い感動に包まれた。
電気水道ガスのようなインフラの状況から察するに、「赤毛のアン」と「大草原の小さな家」は時代設定がほぼ同じのような気がする(調べたらどちらも1880年前後)。どちらもお金のない農家の生活は厳しい。けれど、西部開拓に向かうローラたちの生活のほうがハードな気はする。もちろんアンの住むプリンス・エドワード島の冬は厳しいし、11年間を通して視聴すると、この時代、知り合いがどんどん死んでいくのがわかる。1928年がペニシリン発見とのことでそれ以降の人口爆発は明らかに病死の減少だと想像できる。
どの「赤毛のアン」を見るときにもいつも感心するのがマニラの村での立ち振る舞いだ。凛としていて意思表示もはっきりしている。が、言い回しというか、話の持っていきようというのか、対立せずに実に上手に我を通す。隣近所との付き合い方もバランスをとっている。電子機器による通信がこれだけ発達した今、話をするために人んちにわざわざ行くということはないけれど、日本古来の変にへりくだった気の回しようなどはなくとても現代的で、今の時代にも参考になるバランス感覚だと毎度思う。
けどよくまあ、あんなに自然の厳しい土地で隣近所があんなに離れていて淋しくないものだと、これまた毎度感心する。デートのお誘いが常に「お散歩」のお誘いなのがリアルだ。
地図を見ていて気が付いたのだけれど、プリンス・エドワード島は案外とアメリカに近い。北の辺境のような気がするけれど、メイン州のすぐ上だ。島だけれど今では橋でつながっていて便利そうだ。とはいえ橋の上からは水平線しか見えない海。なんと広いことよ。北国であることもあって、空が低くてうら淋しい。西部のデスバレーよりは断然マシだけれど、どんなに整備の行き届いた立派な車でだったとしても、一人でドライブしようとはあまり思わない。
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posted by kaho at 02:00
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